埼玉県行田市の行田中央総合病院は、地域に根ざした医療サービスの提供を心がけております。

医療法人社団 清幸会 行田中央総合病院

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外来診療のご案内

ごあいさつ
前理事長 川島 清 は平成27年4月1日午前7時脳梗塞にて永眠いたしました。(享年84歳)
3月30日まで介護認定審査会委員の任期を務め上げ、31日に最後のお産を取り上げ、長患いすることなく、PPK(ピンピンコロリ)を地で行く生涯現役で、わが父ながら見事な一生でした。
生前はひとかたならぬご厚誼にあずかり、父もさぞ皆様のご厚情に感謝していることと存じます。

                            行田中央総合病院院長  川島 治

清幸のキセキ
>>  産科医として54年間で約2万人以上を取り上げる。
>>  目(アイ)を見つめて
>>  獅子奮迅
>>  熊高の隆盛を願って 刎頸の友と共に立つ
>>  幸の輝き ~妻として同志として~
>>  清幸のキセキ 回想録
  

川島産婦人科 開業のおしらせ

診察風景

新生児診察

「鉄剣マラソン」パンフレット広告記事 から

 
 

  

田舎医者(行田市医師会設立五十周年記念誌より)  PDF版  >>> PDF


行田市医師会員になって35年が過ぎて68歳になってしまった。よく「少年の1日は短く1年は長い、しかし老人の1日は長く1年は短い」と言うが、第一線の医者にとっては1日は短く確かに1年はあっという間に過ぎ去ってゆく。振り返るとよくやってきたなと感無量である。


当時は今のあさひ銀行で常会をやっていて産婦人科関係では斉藤、田代、村越の先代の名医が揃っており30才代の若輩の私にとっては身も竦む思いであった。父敏雄の病気で止むをえず生まれ故郷の須加に戻ってきたのだが、いま少しの東京の遊学生活には後ろ髪引かれる思いがあった。



なにせ田舎の事で何でも診させられた。眼科、耳鼻科、皮膚科、加えて弟の胃腸科の指導で虫垂炎、鼠径ヘルニヤ、ホワイトヘッド、さらに包茎の手術までやり、アッペは600例位に上った。当時は創が小さいのが流れになっていたので、最初のころはアッペを探し出すのが大変だった。月並みだがやはり慣れるのが大切である。往診し、患者と布団を含め、入院一式をスバルの後部座席に詰めて運んで来てやったり、サービスには心掛けたものだ。


当時は往診が大変多く、今の循環バスではないが、何処から何処へと大体コースは定まっており午後1時位から出て5時間位かかった。インフルエンザ流行時にはメチロン、メヂコン、ザルブロ等を箱のまま車に積み込んで20ccの注射器がなくなると患家で煮沸消毒をして、夜10時頃帰宅する有様だった。患家でふるまわれる煮込み手打ちうどんのなんと美味しかったことか。


池畑先生からは「往診は時間がかかる。その分、家で診れば何人も診れるのではないか」と言われた。このお言葉は私への発奮の意味でも凄くインパクトがあった。今でも忘れられない。だって、当時は未だ車も少なくバスもなく田舎では来てくれる患者は少なく往診するしかなかったのだ。町の先生は良いなぁとしみじみ思った、そして患者は少しこじれると町の医者に行く。魚と同じように患者はのぼるものなのだと、何度、口惜しい思いをしたことか判らなかった。町の医者は偉いんだなあとつくづく思ったものだ。


挙句の果てに県当局から往診が多すぎると監査を受ける始末で大目玉をくらった。この時は今は亡き野口仁会長、中村先生に大変ご厄介を賜りました。


この時に私は矢張り町へ出なければだめだと決心が固まった。それにはもう一つ理由があった。実は私たちの結婚に際し妻から5年以内に町へ出るという約束があったのだ。なにしろ華の札幌すすき野から食用蛙の鳴いている田圃ばかりの須加に来たのだから。その時はもう約束の1年を過ぎていたのだが、そこそこ貯金も出来たしこの利息で生活できるし、私は町へ出るのが億劫になっていた。ここで改築してこのままやっていこうと妻に言ったら、「それでは約束が違う私は承知できません。私が出るところを捜します。」と言われてしまった。そして妻はたまたま深谷に土地があった関係で、その辺りの産婦人科患者になり偵察するという涙ぐましい身を挺しての行動をとった。そして結論的に深谷は冒険過ぎる、矢張り行田市内に出ようとの結論に達した。そして結局妻がよく買い物に行った長野広小路の魚屋さんの世話で富士見町に出てこられたのだった。女子高移転前のことで近くに家もろくになかった所で蓄えは土地代に消え、日銭で銀行に建物の借金を返してゆき、そして段々どうにか暮らせるようになっていった。


その時町へ出る事、サーモコン造りの設計図を当時開業していた胃腸科に見せたら冒険過ぎると反対されたのを今では懐かしく思い出す。


昭和4211月父が急死し、相次いで432月には薬剤師で飯能に嫁していて2才の幼児と乳飲子を残し我々兄二人医者でありながら乳がんで妹幸枝が31歳で手術を4回やり壮絶に死んで行った、かわいそうだった。いい人は早く死ぬ。そして同年4月川島産婦人科が19床で富士見町にオープンできた。


何かと女性遍歴が多かった夫をなくし逆にほっとし、また可愛い娘を失い気落ちしてか、それからの母は一気に痴呆が進んでいった。その母を妻は懸命に介護し、そして昭和48年にその最後を看取った。私達子供にとっては本当に有難い母だった。この時の私達夫妻の老人に対する思い入れとその体験が老人福祉の重要性を認識させ、その後の私共の老人福祉事業の展開に向かっていったのだった。


休日急患診療所 診察風景

職員旅行

医師会優良職員表彰

川島産婦人科交流会

院長退任

健診の問診風景

スマイル(産婦人科)病棟

新入職員歓迎会

介護認定審査会 最後のお務め



  
 

  

ごあいさつ(埼玉県腎・アイバンク25年の歩みより)  PDF版  >>> PDF


本日は連休初日にも係わらず、法人設立25周年記念式典に多数ご出席賜りまして誠にありがとうございます。
当協会もお陰様で25周年を迎えることができました。これも皆さまの日頃から献眼・献腎にご理解、ご支援を頂いている賜物と厚く感謝いたす次第です。

このたび、県医師会の先生方、ライオンズクラブ、ロータリークラブの実行委員の方々のご苦労により、本式典が立派に挙行できましたことは実行委員長として、大変ありがたく感謝いたしているところです。

私的になりますが、私の家族と献眼について係わりを述べさせて頂きたいと存じます。

私は昭和32年に妻・幸子と結婚しました。その頃献眼は読売の『光と愛の事業団』がもっぱら取り扱っておりました。程なく幸子かた「家族全員が献眼登録しましょうよ」との提案がありまして、医師であった父も賛成し、父・母・私・幸子と4人揃って登録しました。そのことは、写真入りで読売新聞に大きく掲載されたものでした。

そして父が昭和42年、続いて母が昭和48年に献眼を奉仕されました。

その年、昭和48年に行田ライオンズクラブが結成されまして、その後、昭和62年に埼玉県アイバンク協会が発足致しました。我が家の発起人でもある妻・幸子も平成21年に鬼籍に入り、当バンクにご厄介になり献眼致しました。ですから最後に私が実行し、貫徹になるわけです。


日本では、遺体は献体としても毀損することはタブーとされ、否定的な死生観を持つ人が多くいます。移植医学がなかなか浸透しません。献眼ですらそうです。死は文字通り二度と目覚めることのない永眠です。死して2人の人間の視力が回復し、光を得ることができれば凄いことです。素晴らしいことです。

将来、あのiPS細胞により、角膜移植はなくなるかもしれません。

それまでは絶対に必要な医学です。私たちは、角膜障害による失明を1人でも救い、光を得て明るい人生を取り戻すことに微力を尽くします。

皆さまの力を賜りたく、心からお願い申し上げる次第です。

読売新聞掲載記事(52年前)


献眼の方法及び献眼登録につきましては、
こちらをご参照ください。

角膜移植は光の提供
 ~アイバンク、それは優しい思いやり… >>PDF版


  

ライオンズクラブ330-C地区 
第38回年次大会

第38回年次大会 会場

大会議長として

行田市総合公園内に寄贈された友和の像


第14回合唱祭

第5回行田浮き城まつり

 

  

感謝(Head Heart Hand 一年の記録より)  PDF版  >>> PDF


”少年老い易く学成り難し、一寸の光陰軽んずべからず、未だ覚めず池塘春草の夢、階前の梧葉すでに秋声”
 
一年間という歳月は還暦を過ぎた私にとっては誠に短いものでした。昨年六月ブリスベーンの国際大会に子供の遠足のように欣喜雀躍としてエレクトとして参加し閉会式上ガバナーに任命されたのもつい昨日のように思われます。


外国の老いたメンバーが夫婦でチョッキと帽子に垂れ下がる位一杯ピンをつけて ホットドックをパクついている姿、そしてパレードの偉容これが国際大会なんだなあとしみじみ感じた次第でした。(中略)


4
12日の地区年次大会においても畑県知事、菊池国際理事、山口国際理事候補者等多数のご来賓のご臨席のもとに地区4,000名の全員登録をいただき行田産業文化会館大ホールが超満員の熱気につつまれ盛大かつ整然と式典を挙行できました。物産展、バザー、絵画展等を通じて市民参加の実を上げられました。(中略)


今期私は幸運にもキャビネット役員を始め年次大会部会の皆様にも素晴らしい人材に恵まれ各位から心からなるご支援ご協力を戴きながら所期の目標、諸行事も無事達成できましたことに更めて衷心よりお礼を申し上げる次第です。


更に私をガバナーとして親身になって頑張っていただいた新井幹事、海谷会計をはじめ幹事団の皆さん、事務局の皆さんに心からなる感謝を捧げさせて戴きます。有難う ございました。 (中略)


ライオンズは地域社会に奉仕することが原点ですが、人道的な奉仕をグローバルに 展開する時に来ております。今期私は「Head Heart Hand 三つのHで真の奉仕」を提唱し真心のこもった奉仕活動をご期待申し上げて参りましたが、大方のメンバーに 支持され“三つのH”が口の端に上がっていることに対し私は本当にうれしく存じて おります。 (中略)


思いは盡きませんが最後に親愛なるライオンズ及びライオネスの皆さんお元気で益々のご活躍をお祈りいたしております。ガバナーとしてのこの一年間感動と感謝の日々の連続でした。ありがとうございました。

  
「行田ライオンズに想う」

   >>PDF版はこちらから


  

熊谷高等学校同窓会行田支部 第1回定期総会


江利川内閣府次官を迎えて
(平成18年)

JR東日本 大塚会長を迎えて
(平成18年)

写真家関口氏を迎えて(平成19年)



  

汗まみれの”天使”(昭和55年)

「朝、みんなが待っててくれるのが嬉しくて……」ねたきりのお年寄りの施設をきりもりして来月でちょうど1年。「病院ではなく、”生活の場”として暮らしてもらいたい」と、毎月の計画の中に、季節の行事を折りこむなど、もっぱら「どうしたら、お年寄りに生きがいを持ってもらえるか」を念頭に奮闘する毎日である。
「主人の母がやはり寝たきりで、その時の体験を少しでも役立てたかったんですネ」 … 
                  こんにちわ「汗まみれの”天使”」(昭和55年)より

交通安全母の会パレード
(昭和45年)

おしぼり運動

交通安全母の会研究大会

東小学校 開校100周年記念式典

東小学校開校100周年記念式典
オリンピック選手あん馬演技

土屋参議院議長と









  
 
清幸のキセキ 回想録  PDF版  >>> PDF


私は昭和614日に、父 敏雄の勤務地 広島日赤病院で1,900gの未熟児として生れ、まともに育つかどうかわからない状況だったとゆう。祖母 くにが迎へに来て、冬の事とて祖母の着物の懐の中で、襟巻に巻かれて暖められて、汽車で埼玉の須加にやっと帰ってきた。だから、出生届は1か月遅れで、公式には2月4日生まれになっている。長じて泥まみれで、兵隊ごっこで遊び、夏は利根川で泳いでいた。戦争中、あまり饑じい思いはしなかった。

敗戦の前年、旧制熊谷中学に辛うじて入学することが出来た。当時は内申書と口頭試問と投げる走ると竹登りの試験だった。「青森までゆく幹線の鉄道名は」と聞かれ、あがっていたので奥羽本線と答えてしまった。他の試問にもしどろもどろだった。なにしろ田舎の国民学校とくらべ、あまりにも学校が広く立派で度肝を抜かれていた。迷子にならないようにするのが精一杯だった。


荒木駅まで自転車で、秩父線で熊谷まで20分、駅から隊列を作り30分歩いて登校した。間もなく勤労動員となり、毎日飛行機のジュラルミンを磨いたり、旋盤を操作したりして勉強はなく、一回だけ敵機の機銃掃射があり、防空壕に避難した。そのうち仕事の材料が無くなって来て、これで果たして日本は勝てるのかと思った。恐いもの見たさで利根川の土手で見ていたら、B29の編隊が悠然と飛んでおり、太田の中島飛行機工場に爆撃に行ったのだろうか、2機ほど小さな日本の戦闘機がB29の後ろについたと思ったら、たちまち火を噴き落ちて行った。情けなかった。そして熊谷の大空襲で、翌日町中は真黒に焼け焦げていた。そして遂にほとんどはっきり聞こえない玉音放送で終戦。



幼時から父親の背中をみて育ち、医者になると決めており、他の職業は全く考えになかった。

未だ戦争の影響が強かった昭和23年、東邦医大に入学した。一週毎満員すし詰の蒸気機関車の列車で帰郷し、米をリュックに詰め、下宿に食扶持として納めた。
宮原駅も田圃の真中に新設され、住宅もまわりにはなかった印象が強い。

私個人的には、この際身辺行動を変えようとし、派手な友達とつき合い、硬式野球部に入り十名位のメンバーでやっと試合が成立するとゆう程度。だから医大リーグでもいつも最下位だった。そして麻雀が面白く、学校近くの雀荘の常連でもあった。あのころは社交ダンスも流行し出し、学校の図書館で月一回パーティーが開かれていた。貧しくも楽しい時期であった。

昭和30年 医学部卒業し、国家試験もパスすることが出来た。面接で、ST低下の心電図を問われたのを覚えている。赤須教授の主宰する産婦人科学教室に入局し、外来・入院・ホルモン研究に頑張った。河原助教授の熱きご指導には感謝の言葉もない。
「婦人科領域における血中17-ケトステロイドの研究」で医学博士の学位をいただいた。1年上の野口先生と毎日深夜まで研究室にこもって頑張っていた。若かった。


父が急性心不全にて急逝し、急遽帰郷し、川島医院を継ぐことになってしまった。

内科・外科・産婦人科等、殆ど全科に及んだ。
午後から往診は看護師さん1人連れ、2030軒、南河原が多く、当時は注射も多く、軽自動車の後部座席に注射アンプルを積み、往診カバンの中のアンプルを使い果たしてからそれを使い、静脈注射は用意したのが使い切ると、家で煮沸消毒をさせてもらって、その間うどんをごちそうになっていた。うまかった。
当時はインフルエンザの流行も多かったので、帰宅が深夜になることも多かった。よく働いたものだった。


これまで周りの多くの人の紹介で、十数回くらいお見合いをした。いい人が多かった。急遽診察のため遅刻が3回あって、それは全て断られた。素敵な人にも断られた。すごく好意的な人も数人いたけれど、私の意に添わず、お断りさせていただいた。不謹慎ではあったが、お見合いが面白くなっていって、次はどのような人だろうか、と想像するようになっていた。素敵な場所と料理と麗人…

私には妻になる人に自分勝手な望みがあった。自分に欠けているもの、即ち社交性に富み、論理的頭脳、弁舌に勝れている。そして最後にできれば容姿端麗な女性。家庭もそこそこの程度。

昭和36年12月に、札幌薄野出身 幸子とゆう理想的な女性に、弟 登・和子夫妻の紹介により結婚することで来た。天にも昇る思いだった。
そして幸子は私の期待以上の人だった。富士見町に出ていきなり交通安全母の会 会長、女性運転者協会 初代会長等々歴任し、市・県要人、特に中川市長・吉田県議とも知遇を得ていた。


その頃、私の母と同居していたが、今でゆう認知症が強くなり、お手伝いはいたものの、その親身な世話は大変なものだった。そして義父 敏雄が、昭和42年11月。その3か月後、飯能の薬局に嫁ぎ二児を得ていた私の妹 幸枝の乳がんの療養、数回の手術、入院付添い等の面倒を見て、昭和43年1月に31歳の若さでの見送りがあった。昭和48年4月、義母 ようを看取ってくれた。そしてわたしを特に目にかけてくれ、愛してくれた。私達の娘 美紀を目に入れても痛くないほど可愛がってくれた。夫婦仲に恵まれず、薄幸な母を看取ってくれた、その看取りの大変な事の体験の中から、老人ホームの建設を考えるに至り、中川様・吉田様の協力を得て、私の生まれ故郷 須加に特別養護老人ホームを 緑風苑を建てることができた。

法人設立・ホーム建設等には莫大な書類提出があったが、今のグリーンホーム長 稲月さんの協力を得て、一人で、或いは吉田県議と二人で県庁に数回出かけて行った。普通はそれらの書類作成は専門家に頼むのが普通で、全て施主がやるのは異例だと、後日皆様に云われて褒められていました。本当にその目のつけ所、企画力そして実行力、それは大した勝れものでした。


実は私達の結婚に際し、幸子からの強い約束がありました。何しろあの札幌薄野の繁華街から遠く田圃だらけの、昼は蝉が鳴き、夜は食用蛙がわめく環境の全く違うこの土地に嫁すのだから。
それは5年経ったら町へ出ようとゆうものだった。


約束の年限が近づいたとき、貯金もそこそこできたし利子での生活も可能と思うし、今から町へ出るのは大変だし、このままでいいのではないか、町へ出たら小学校の運動会でもテントの中で椅子席でとゆう訳にはいかないだろうから。
彼女の言い分は「それでは約束が違う、やりましょうよ。やらないんだったら子供を連れて札幌に帰ります。」とゆうものだった。「貴男は診察・往診に忙しく、夜遅く帰ってくる。私はさびしくてしようがない。」…私は卑怯な男でした。


彼女は深谷の病院の3か所の産婦人科に受診し、様子を自ら診察を受けて見て来ていました。身体が悪くもないのに、その時話を聞きての真剣さに、私は心を打たれました。又、彼女は行田・羽生の魚屋・八百屋に出かけ、良い土地を探していました。深谷・吹上を狙っていたのですが、行田市内が最善との結論に達したようです。行田長野の魚屋さんのおばあさんの世話で、現在の富士見町の土地が決まりました。坪3万円でした。須加の思い出深い土地を600万で、瀬戸内海の島の開業医に医事新報を通じて買ってもらいました。私の出た後の医者を手当をしなければ出てはいけないと地区の人々の要望でした。ですから彼女はそれもクリヤーしたわけです。


富士見町は女子高が移転してきたばかりで、道路は舗装もしてありません。田圃だらけでした。
既に市内に開業して盛業中だった実弟から「特技もなく町に移転開業するのはその場所では危険すぎるから賛成できない。やめた方がよいのでは」との反対がありました。忘れられない言葉です。

土地は現金で、上の産婦人科の建物は日銭の外来・分娩の収入を当ててゆきました。幸い軌道に乗ることが出来、返済もできましたし、土地の買い足しも可能となりました。融資してくれた足銀に足を向けて眠れない気持ちです。

私の夢だった子供とのキャッチボールも、広い素晴らしい家の芝生の上でできました。洋風の庭園、15m×3コースのプールも作りました。将に二人の夢の実現でした。


それから悲しい長男の自死がありました。

彼は熊高から独協医大に入学しましたが、理数系に弱かったので予科で留年し、予備校に通いたいと申しました。私は自分の経験からして、教養課程はどうにかなるから頑張るように云いました。
彼は幸子の方針もありましたが、幼少児秀才と思われるほど出来が良く、赤門を見せて、「あなたはここに入るのだよ。」等と云いきかせていました。

車が大好きで、車名は全て的中させました。歴史が大好きで、とくに城、信長が大好きで、安土城跡には何回も出掛け、全国の城を幸子は連れてゆきました。ですから私は開業医に必ずしもならなくても、医史関連を研究すればよいではないかと話しましたが、彼は余りにもまとも過ぎました。幸子は「彼の好きなフロックコート・懐中時計・コカコーラ・肉を存分に与えたので、私は悔いはない」と強気に云っておりました。仕方なく私はアメリカに留学して医史学者になっているようにと思うようにしました。


それからの幸子は、皆様ご覧の様に福祉に身を捧げて発展させてゆきました。県の老人福祉の世界でも、指折りの女性になってゆきました。

世の中は少子化に進んで、産科も斜陽になってゆき、ハード・ソフトともに危うくなってしまいました。彼女は当時、緑風苑・グリーンホームも運営しており、そのため老人病院にし、これに小児科を併せてゆくという方針に邁進してゆきまして。

その頃時代は医療圏内での病床規制がありました。中川市長さんが改選を迎え、総合病院の誘致を公約しました。私共の病院転換に総合病院的にしてくれないかとの申し入れがあり、それではと軽々に承知してしまい、慣れない複合科の運営は難渋を極めました。もっとも医師会が患者を取られると反対し、対医師会の説明会を持ったのでした。その場では吊上げ状態でした。

そして息子の帰ってくる迄頑張ろうと、二人で気持ちを一つにしました。それには「クリニックのままでは息子は後継はしない。努力して病院を続けなくては」との思いでした。


私は行田ライオンズクラブの設立メンバーで、第3代会長をやりました。地区最高責任者のガバナーは、7リジョンの持ち回りで、話し合いで決まっていました。そして、平成3年に行田・加須・羽生地方の順番がきました。
この地方では、行田クラブが一番古く、加須クラブを作っております。ここは行田でやらなければとの世論があり、私がクラブから推挙される状態になりました。

当時、ガバナー職は、1年間200日位家を空け、数千万円のお金を使うとされ、私の職業から言ってもそう留守にするわけにもゆかず、お金も大変。だから断っておりました。加須からは「そちらが出ないならこちらから出ます」との働きかけもあり、行田クラブでは親クラブの面子にかけやらなければとの話になり、大いに悩みました。


その時幸子は、「お金なんか何とでもなる。男子一生に一度の埼玉4000名のトップになる。なんと名誉な事か。ぜひやりなさいな。」と尻を叩かれ、出馬をすすめられまして、私はガバナーを引き受けた状態でした。
後から名誉顧問として、会員である限りは国際協会の役員であるわけで、県下の名士との交際もできております。あれもこれも全て、妻 幸子の後押しのお蔭です。



その幸子が平成10921日、緑風苑長室で倒れ、脳出血左片麻痺に陥り、悲嘆にくれましたが、幸にリハビリを一生懸命やり、杖歩行が出来、頭も異常なく、送り迎えで勤務にも出、市の介護保険介護度判定委員にも毎週出ておりましたが、平成14106日、私の留守8時半頃、トイレに行く途中転倒し、左側頭部を強打。硬膜下血腫を起こし、関東脳外にて開頭手術を受けるも、一命をとり止めたのみで、今だ5年近くなるも植物人間になってしまっております。


今から遅まきながら老後の二人の生活を豪華にしようとしておる時、私は残念で、いまだに涙にくれており、仕事もてにつかなく、足も地についていない状態です。悲しいです。

私も先日、前立腺癌と診断され、治療中です。
又、クラブの旅行例会で転倒して、胸椎圧迫骨折を起こしてしまい、踏んだり蹴ったりされた状態です。
最近は死と向き合って生きているとゆったところです。


生後175日 広島にて

両親・弟妹と

学生時代

須加にて

ライオンズクラブ330-C地区
第38回年次大会にて

グリーンホーム納涼祭

「うららか」での誕生会

友と

友と

  



※今回掲載いたしました写真等に支障がありました場合には、病院までご連絡願います。
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